地名に富士見と名の付く所は全国に何箇所もり、それぞれの場所から富士山を望めるが、長野県の富士見町からも雄大な富士の姿を遠望することが出来る。
富士山を見ていつも思うのは、その雄姿とは裏腹のゴミのことだ。
世界遺産登録云々で富士山のごみ問題が話題になって、だんだん世間の注目を集めるようになった。
山頂のトイレの問題は、管理する自治体や国が責任を持って解決するべきで、良い方法が必ずあるはずだ。
問題は山麓周辺への不法投棄と、登山者が捨てるゴミだ。
アルピニストの野口健さんが、清掃登山等の活動を行っていて、とても素晴らしいことだと思う。
しかし、そういう活動に参加する人たちは環境への意識が高く、そこら辺へゴミを捨てるということはまずしない。
問題は、いくら拾っても、捨てる人がいる限りゴミはなくならないということだ。
ゴミを捨てる人をなくさないことには、いつまで経っても問題の解決にはならない。
ではどうすれば良いのか。
一つ良い方法を考えた。捨てた人たちに拾わせるのだ。
一つは、不法投棄や廃棄物処理法違反などで捕まって、現在服役中の人たちがいるはずだ。彼らが清掃登山に参加するべきだ。自分が犯した罪を償うということは、自分の捨てたゴミを拾うということではないか。
罪を犯して刑務所にいる人に、国は一人当たり1ヶ月35万円以上の税金を使っているという。そういう人たちが、作業の一環として全国各地でゴミ拾いに参加すれば、日本ももっと綺麗な国になるのではないか。
アメリカでは交通違反を犯すと、交通のボランティアに参加する義務が課せられるそうだ。そうすることで違反者の意識が変わるのだ。
そこらじゅうにゴミを捨てると言うのは、まさに意識の問題で、小さい頃からの教育が重要なのは当然だが、今あるゴミを拾うのは捨てた人たち意外にいない。
日本では、役人が税金を使って無駄な施設や建物を建てて、それが全く必要のないものであっても、誰も責任を取らない。自分が捨てたゴミを誰も拾わないのだ。
政治家や役人等その国のリーダーと言われている人達がそうだから、次から次へと無責任な偽装問題が出てくるのではないか。
自分が捨てたゴミは自分で拾え。そして拾えないゴミは捨てるな。