シベリア抑留体験記~叔父の手記より~1

実家の本家では、従兄弟が代表となってグループホームをやっている。その従兄弟から、毎月機関紙が届く。そこに今年89歳になる叔父が毎回記事を書いている。今月号から、叔父がシベリアに抑留された体験記が連載されるようになった。以前にも少し書いたが、叔父は太平洋戦争で中国へ送られ、戦後3年半にわたりシベリアに抑留された。今まで叔父からは折に触れ、断片的に戦争の話を聞かされたが、いつか詳しい話を聞きたいと思いつつ今日まで来てしまった。叔父もまだまだ元気とはいえ、来年は90歳という年齢。この体験記はぼくにとっても、いつか叔父から聞いておかなければならないと思っていた話。記録のためにも、ここに転載させて頂く。(尚、読みやすくするため、多少の添削を加えました)

まえがき

杉山 茂

確か昨年秋だったと思います。義理の弟のSさんが私に、兄さんはシベリアに連行され、捕虜となって強制労働させられた、そのときの体験を知っている人も今は少なくなった。このままでは次第に他人事のようになって忘れ去られてしまいます。是非シベリアへ抑留されたことを書き残してください。と言われました。

私は今日まで、シベリアの話は余りしませんでした。なぜかと言えば、聞きたいという人も無く、また余り自慢できる話ではないので、つい口を閉じておりました。Sさんの言葉を聴いてから、私は考えました。そうだ、私がなめた悲惨な体験を再び若い者たちに決してなめさせたくない。そう思いつき書き残すことにしました。

あれからもう半世紀以上が経過しました。当時のことを思い出して書いていると、戦友たちの面影が次から次へと浮かんでくる。北支とシベリアで特に心に強く刻まれた苦しみと、喜びの記憶を書きました。

戦争の惨禍

昭和十八年私は二十二歳、日本はいまや残るか滅亡するかと言う太平洋戦争の真っ只中でありました。私たちは男子として国のため、父母兄弟姉妹のために、たとえこの身は一髪土に残さず散っても悔いはないと思った。世界を相手の今日の戦いは、きっと死ぬかもしれない、生きては返れない、立派に恥ずかしくないように死のうと思っていた。

現代の感覚からすれば、おかしく思うかもしれないが、少年時代からそのような教育を受けて育った。私たちには不思議な事でもなく、当然であった。昭和十八年一月九日郷里鼎下山村の駅を出発、家を出る時はおばあさんと父母妹、玄関まで、近所の方々へ挨拶をし、万歳で見送ってくれる。

新潟の高田までの車中は指定列車で入営する仲間と、付き添いの家人でいっぱいであった。

夕刻列車は、白一色豪雪の高田市に着いた。指定された兵営近くの旅館へ着く。

一月十日入営。軍服に着替えてきていた国民服は家へ小包で送り返す。高田での訓練は、わずか十八日間であったが、兵器と一緒の油くさい兵舎。夜は細く丸めた冷たい毛布の寝台にもぐりこむ。我が家のぬくもりを思い出す。

国を出るためか家族との面会があり父が来てくれた。体に気をつけてと言葉は少ないがもうこれが最後になるのではと思う親の寂しさは如何ばかりであったかと思う。
十八年一月二十八日、雪の高田を出発。出陣式は吹雪の中で真夜中の営庭であった。部隊長が、皇国は今や存亡のとき、諸士の尽忠報国ご健闘を祈る、と挨拶。手を振って送ってくれる。そしてその四ヶ月後、山崎隊長が率いる高田連帯は北のアッツ島で玉砕。散る桜残る桜も散る桜。我々も散る桜であることに変わりはなかった。

高田から我々は中央線と北陸線周りの二手に分かれる。列車の窓は外から見えないようカーテンを引く。出発十八年一月三十日、下関で乗船。関釜連絡船の金剛丸。祖国日本との別れがきた。生きて再び見ることもあらじ。と船の丸窓から港を眺める。だんだん遠ざかる祖国。のぞいてはいけないと注意をされるが次々と来ては丸窓を半開きにして眺める。

さらば祖国よ栄えあれ、我は行く、熱いものがこみ上げてくる。さようなら日本。やがて祖国は小雪の彼方に消えていった。

暁に祈る
一、あああの顔であの声で
  手柄たのむと妻や子が
  ちぎれる程に振った旗
  遠い雲間にまた浮かぶ
二、ああ堂々の輸送船
  さらば祖国よ栄えあれ
  遥かに拝む宮城の
  空に誓ったこの決意

六番まであるが、当時をしみじみと思い出す歌。

つづく

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