シベリア抑留体験記~叔父の手記より~3

戦争の惨禍 続

満州にいた日本人の男は皆、我々と同じように抑留され、ソ連兵に看視された。数日後、我々をソ連のウラジオ港から日本へ帰すという知らせを皆信じて貨車に乗る。
奉天の駅には朝鮮を通って日本へ帰国する女性たちが乗った貨車が何十両も停まっている。兵隊さん頑張って、と我が身のことも忘れて、どの貨車からも我々を励ましてくれた。北に向かっている我々を見てソ連へ連れて行かれると思ったに違いない。励ましてくれている女性たちに、我々は只、手を振って応えるだけで何もしてやれない。悔しい情けない思いだけがこみ上げる。

道中何事もなく、無事日本へ帰って欲しい。帰れるだろうかと心配が頭をよぎる。敗戦とは、女子供にとっては地獄のような恐ろしさ、女ばかりの夜道を集団で逃避、寒さと飢えで乳飲み子は泣く、泣くと襲われて皆に迷惑がかかる。母親たちは皆、断腸の思いで我が子を満人に託したのであります。
残留の我が子と会うために目印にと子供の足に火傷を負わせ、その傷跡を見て親子の名乗りが出来たと、涙の出るような孤児との対面をテレビで見ました。

十月一日、我々はいよいよ国境の黒河を北安丸外輪船でバシャバシャと水音を立てながら、対岸のソ連領土、ブラゴエに渡る。女性たちがスカートに皮長靴という服装で馬鈴薯を掘っていた。私は何か文化の違いを感じる。
我々の貨車が東へ向かえば日本へ、北へ向かえばモスクワになる。運命の岐路、東へ向くと喜びの歓声、北へ向くと落胆の声。次第に夕日が沈む。北西へ向かって行く。まんまと騙されたことに気付き皆力を落す。帰国の夢敗れ、もうだめかと観念した。

列車が止まると、決まったようにソ連の女たちがパンを抱えて品物と交換を呼びかけて近寄ってくる。腹ペコな我々は、身に付けている品物とパンを交換した。だんだん無くなり、しまいには出発の時奉天で作った、赤い布の越中フンドシを洗濯して干してあるのを見て、特に欲しがり、大きなパンをくれた。赤布はソ連の赤だから女たちは特に貴重な布であった。交換した赤い布は、紐を抜いて頭へかぶり満足そうに引き上げていく。我々はなんとなく良心がとがめる。

輸送も長くなると色いろな知恵がついてきて、寝るときの窮屈を直すために隣同士、頭と足を交互にしたら、寝返りも何とかすることが出来るようになった。走っている貨車の扉を少し開けて、小便をすることも覚えた。
シベリア本線の駅付近は至るところに糞の山、何十万の日本軍が通った証拠だ。汽車は、果てしない草原、湿地帯をどこまでも北へ北へと進んでいく。右に大海のようなバイカル湖が青黒い水をたたえ、大きな波を打っている。

一週間目の十月八日、チレンホーヤの駅から我々の貨車は支線に入り、長い暗い窮屈な貨車の旅路の終着地、マカリオという松林の中にある小さな町であった。二千キロの旅も終わり、降り出した雪の中これからいかなる生活が始まるのか不安な気持ちで足取りも重く、収容所の建物に向かった。

つづく

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