シベリア抑留体験記~叔父の手記より~2

戦争の惨禍 続

釜山へ一泊、歩くのに船酔いで気分が悪い。急行アジアで朝鮮半島を縦断し、列車を乗り換え中国北京へ。そして我々初年兵四十六名は重機関銃の要員となり、三ヶ月の厳しい教育を受ける。

三度の食事は現地の粟と、高粱の雑穀飯、おまけに砂でジャリジャリ、かめないので飲み込めず、目が廻る忙しさの中、水でよろげて食べた。小さな杯に砂が半分くらいたまる。現地農民から買う穀物、兵隊を病気にしたり穀物の目方を増やすための一挙両得、中国人は実に商魂がたくましい。

七月大地も焼けつく暑さ。澄んだ井戸水だが石灰分が多く、知らずに生水を飲んで赤痢患者が続出、初年兵はみな入院。死者が二人も出た。私も同じように水を飲んだが、お陰に一日の下痢ですぐに直った。入院しなかったのは私一人だけでした。

大きな作戦に始めて出動。山間部の夜道を眠らずの行軍。馬の尻尾につかまってうとうとと眠りながら、一昼夜かけて目的地に着いた。私は始めて戦闘を体験、ぴしぴしと弾丸が飛んできた。

戦友が熱さのため日射病で戦死。
あの戦いは敵に待ち伏せされて、機関銃で撃ちまくられて、隠れるところもなく裸の山に一日中へばりついて動けない。太陽が焼きつくように照りつける。もう水筒の水はとっくにない。腹が減っていても、口が乾いて何も喉を通らない。下のほうを見るとキラキラと水が光って見える。水を飲みたい。戦闘も山砲の応援で敵も退散。ようやく山を下り、我先に争うように兵馬が歩いた。道のたまり水をはいつくばって飲む。水の大切なことを知る。そしてにごり水を飲んでも不思議に腹をこわした者はいませんでした。
昭和十九年戦局は日本にとってだんだんと不利になってきた。

ラバウル島の歌

 一、さらばラバウルよ又来るまでは
   しばし別れの涙がにじむ
   恋しなつかしあの島見れば
   やしの葉かげに十字星

 二、波のしぶきで眠れぬ夜は
   語りあかそよデッキの上で
   星がまたたくあの星みれば
   くわえタバコもほろ苦い

この歌は北支の我々の戦地にまでも聞こえてきた。我々は重機の中隊で、いつも愛馬と行動をともにしていて、この歌が懐かしい。

愛馬進軍歌

一、国を出てから幾月ぞ
  共に死ぬ気でこの馬と
  せめて進んだ山や川
  取って手綱に血が通う

二、昨日落したトーカケで
  今日は仮寝の高いびき
  馬よりぐっすり眠れたか
  明日の戦は手強いぞ

昭和二十年となり、敗戦への道をまっしぐらにたどることになる。中国へもB29が毎日飛んでくるようになった。我々が沖縄へ行くとか、九州へ行くとか、色いろ噂話はあったが、我々の舞台は満州の奉天へ移動した。
タコツボと言って、人間一人入れるほどの穴を掘って箱爆弾を抱えて隠れ、ソ連の戦車のキャタピラーへ飛び込む訓練ばかりを毎日毎日していた。自爆の死である。

昭和二十年八月九日零時、ソ連が参戦。明治三十七年の日露戦争。日本は奉天で勝ち、海ではバルチック艦隊を日本海で壊滅して日本が大国ロシアに勝った。
ソ連のスターリンは日本の無条件降伏を知って、仕掛けたのは、日露戦争の報復戦と言える。
ソ連軍がどんどん南下してきた。我々に必要な箱爆弾は最後まで届かず、竹やりで戦車に向かうが如し、死を覚悟する。

八月十五日、部隊長より日本は無条件降伏したと全員に伝えられた。死を目前にしていた我々は、正直これで生きて我が家へ帰れるんだと心密かに喜んだのは私だけではなかったと思う。部隊はまとまって行動するから逃亡などしないよう伝達があった。
数日後ソ連軍が奉天まで南下、我々は一戦も交える事もなく武装を解除され丸腰となり、捕虜となって抑留される。

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